福井に藤井風を見に行ったら登山が趣味の人間の気持ちが分かった回

藤井風LASAツアー福井2023/1/29の話。ネタバレ含有。それはそう。

 

 

アリーナツアーの概要を見たときから、冬の北陸行きたくね?と思ってサンドーム福井のチケットを無事ゲットした。

ぼく「1月末、福井に行こうと思うんだよね~雪やばいかな!まったくすごい季節にやるもんだよねえ」

金沢在住知人「サンダーバードが動くかどうかは賭けだからね」

ぼく「おk❕徳積むは❕^^」

 

それから私は転職先の仕事に励み、有馬記念をまあまあちゃんと当てたときにはヤバいかと思われたが真っ当に生きていた。

 

そして時は1月、10年に1度の最強寒波襲来ーーーー

 

前乗りも考えてたけど前の日はゾフィーの単独に行きたかったので✕。

徳が足りず私も来世はきっとサバ…と思われたところ、なんとかJRが動く程度には回復し、福井にたどり着いた。

 

一応氷河期ではある。

サンドーム福井までは福井駅から鯖江駅までJRで移動することができる。

そして鯖江駅からはおよそ20分の徒歩。これがすごい。絶妙にバスなどもないため、タクシーか闊歩かの2択。歩道に積もった雪はなんとかひとが歩くところだけ雪が除けられ踏み固められており、ぞろぞろと列をなして歩く。このときもみぞれっぽいものがひたすら降っていたけれど、案外寒くなかった。風があんま強くなかったからかな。このエントリで風(気象)の話すんの難しいねんな。

無降雪地帯代表としてはほぼ初めての経験で、ワクワク感すらあった。

 

今年のツアーについては、これが終わったら今年はもうライブありませんということだったので、パナソニックスタジアムからのスパンの短さ的な反動もあり結構寂しいような感じだったけれど、終わってみると本当に今の有りもん全部乗せって感じで満足感と納得感に圧倒された。かなり好きなライブだった。

 

開幕チャリ登場、それは小田和正じゃん。

それでは、のオケに乗せてチャリに乗ってお手振りしながらアリーナの中を走ってくる藤井風、めちゃくちゃ”らしくて”いい。スタンドだったけどドームのつくり的にかなり近いのでよく見えるなあと思っていたら、前の席のファンボが手合わせて拝んでたのが良かったです。遊行か?


というか、この音源がめちゃくちゃいい。歌声無いとこんな感じなんだなあと沁みたりして 映画館で聴きたい感じのやつ。

 

SSAだとさよならべいべでもチャリで場内1周してたらしいですね……小田和正だな……

LASAアルバムメインのツアーでさよならべいべがセトリ入りしてくるの嬉しい。ライブの盛り上がり曲といえばまあそうなんだけど、ただ毛色が違うだけでなくやはり“特別”だなあと思うし単独ライブで末永く見たい曲です。
♪新しい扉を叩き割った、のとこのドラムのリズムで一緒にドコドコする癖が治りません。

 

盛り上がりという点ではdamnがめちゃめちゃ化けていると思うんだ…ポップチューンだから当然といわれればそれまでなんだけどライブだとあまりにも楽しくてすごい。
まずイントロのベースとドラムのアレンジだけで息止まりかけた。ウッドベースかっこよすぎて本当にめっちゃでかい声でオイオイオイオイえ~~~❣ヤッターーーーーーーー!‼!、‼‼て言いたかった。言ってたかもしれない。ごめん、怖いよな。ちょっと声出てるとかじゃないもん。意思剥き出しで喋ってるもん。

ピアノ弾き語りセクションからバンドセクションになる1曲目にこれぶち込まれて上がらん奴おったら一旦私が話聞こか?といった気持ち。

この曲は本当に3サビが好きでのう…

we'll just dancing away from bullshits ahead ←ここ口ずさんでるとき最高になる へへ

 

そしてタイキさんと小林さんがちょいちょいあの円形ステージで駆け跳ね回ってくれるの、“嬉しい”以外の感情がなくなってしまう。なんだろうな……なんであんな嬉しいんだろうな……感謝します

ヤフさんも何なん(そういえば読み上げる際の正式は「なんなんわら」なんだな…さすがに草および単芝ではないか)で歩いてくれてありがとう

そいえば佐治さん参戦見れてラッキーだったな~複数会場行くと聞き比べなんという贅沢なことが起きるんだな…

 

優しさの軽やかアレンジめちゃくちゃ良かった。原曲のクソデカ感情みがゆるく脱力しててとても心地よかった…。ライブアルバム出しません?ご検討のほど…。

 

死ぬのがいいわ 正面でしたアザス ウッス
さすがにパフォーマンスとして紅白が最終形態だと思ってたけどあの先があるんだよな……ぶっ倒れたまま青春病口ずさみだしたときさすがに震えて青春病の1番とかたぶんずっと口開けて見てたんだけどあれ誰が考えたんだ やりすぎだよ…………(最大の賛辞)

煮え沸る赤照明でこと切れたかと思いきや顔も上げずにそのまんま
(ぼそぼそと)
「青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
青春はどどめ色」
(こっから原キー)
「青春にサヨナラを」
でいきなり明るい水色の照明に切り替わってさっさと立ち上がって行ってしまうやつ………………いいな…………俺もやりたい……(そうですか…)

てかあんなぶっ倒れたまんまで急にあんな延びやかな声出るんだ 伊達に寝そべり配信やってないか。

撮影可・何なんw

寒さで死にかけiPhoneの限界

ピアノに間に合うフジーカゼ(タイキさんの躍動感すご)

 

 

MCがねえ…良さが増してたんよな……。

あの口調でただただ素直なノンデリ発言(捉え方)が出てくるの笑ってしまう。

「福井になんの印象もなかったんですけど…」←wwwwww

 

点呼
「子ども〜」\はーい/「カワイイカワイイ」
「年寄り〜」\はーい/「元気の良いことで…可哀想に…違う、カワイイ」 
「若者〜」\はーい/「(ギャルピ)」
「あとなんや…初老❕中年❕」\はーい/「はい。よくわかりました。カワイイ」

 

もう芸風きみまろなんだよね。最後もうアレクサみたいな対応してるやん。トークではきみまろになりデカい会場では小田和正になるという学び。

 

そのあとどっかで「ホントに皆さんがあったかくて可愛く見えるんですけどそれはわしがあったかくて可愛いということでもあるし…」みたいなこと言ってた(映し鏡的な話をしようとしてる)のがめちゃくちゃ良かった。

この精神性は取り入れたいよなあ…。ちょっと嫌なことあったら相手にswitchのコントローラー半分だけ壊れろとかドリンクバーで原液が一生出ずに水だけ出ること祈るのは本当にやめにしたいんよ。私だって。暖かくて可愛い人間になったほうがいい。

 

たしか旅路の前でも「皆さん人生お疲れ様です…」って言ってたのも今日の客全員が「あれ?我々もう“終わった”んかな?」と思ったかな…。

実際みんな人生おつかれではある。

ちょっとそういう重荷を下ろすためにこういうところにみんな来るわけでね……雪中行軍をしてでも……登山が趣味の人間の気持ちに今ようやく追いつけた日となりました。

根が引きこもりなので、そんなしんどい思いして景色見なくても達成感得なくてもなんか平地で代替可能やろと思ってたんですけど、違うんだよな。そこ、その場の空気に音に熱に振動に意味があるんだよな。オタクは理解(わか)った。

 

なお雪中行軍、帰りがさらにいろんな意味で厳しく八甲田山の4文字が頭に浮かんでいたのだけど、そばを歩いてて途中からお喋りするようになったマダムが「こんなところまで来れちゃったら私これからどこにでも行けるわ!」と明るく喋っていたのが大変印象的。確かに………自分が情けねえよ俺…………24歳そこそこ元気に生きます

 

 

あと…なんか途中で龍が如く参戦すんのかな❓みたいな映像なかった?あのブリッジは一体……❓幻…❓神室町に藤井風はまずいですよ

あの映像マジで1回全員に見てほしい 全員 文脈とか特にないあのブリッジ 誰のディレクションか存じ上げないけど「俺の考える最強の藤井風」みたいなやつ
私はあれをオモシロだと受け取ったんですけど……解釈お待ちしております

 

 

多少の謎を残しつつ、気持ちが不思議と軽くなるいい夜でした。

次の機会がいつかは分からないけどきっとまた新たに食らわせられる衝撃に期待しながら待ってます。

あなたのわたしのアンノウン

 

 いやあいい単独だったなぁ。

 表題コントをメインに据えて考えたことを徒然に。

 

初見時

  • 他者が何を考えたり感じたり、なぜいつどのように行動を起こすかはその人次第であるし、他者の気持ちを操作することもできない。深く付き合ったからといって、すべてその人の「裏」を読み取れるわけではない。自分以外はみな本質的には分かり合えるはずのない他者である。
  • どんな経験もそれ自体では成功の原因でも失敗の原因でもなくて、それにどんな意味付けをするかで現在は決まる

 キャパオーバーしていた脳で初見時に読み取ったこのあたりのことは、アドラー心理学めいていて、そりゃあ日本人であるわれわれの心の不安定な部分を優しく暴くよなあ、と思いました。

 日本人は空気を読ませる、ものすごく。つかれるよね。時流をよんで、適切な言動、ふるまい。わかんねーよそんなの、ちゃんと言えよ、って思う。じゃあいざ自分は言うのか?というと、人を傷つけたくないし、傷つける悪者になりたくなくて何も言えないんですよね。みんなで腹を探りあって疑心暗鬼になって。そこにちょっと思ったことバッて言っちゃう人がいたら疎まれるし。議論すべき場で議論をせずに愚痴を言うのはフェアじゃないんだけど、空気を読んだらそうなっちゃうとか。かなしいことだ…。われわれは日々さまざまな無を有にしては疲れていたのか…。受動的な無の有を作って苦しむぐらいなら、自発的な無の有で生きやすくなれということでしょうか。刻むわな。

  

 想像の溝という点では、ピンクタイムトリップを思い出した。言葉にしないと伝わらないし、ひいてはいつかとてつもない後悔を生んでしまう…

 てかまじソウマさん何者 恐れ入る……ねんどねんど♪

 

 

そして思考の沼へ 

 ソウマさんの家に入る暗転のタイミングでなぜか流れる音楽が「Good Bye」で、帰りの電車であらためて歌詞を見ながら聞いてなんだか心がざわついたり。帰ってきて配信を見たらカメラの画角のおかげで、彩度の低い暗い服を着た息子と背後の暗幕、黒いドアだけが映っているところに登場する真っ白いソウマさんだけが浮いていて、よりいっそう不思議に見えたり。

 いろいろしがみたいオタクごころもあいまって見ていると、モラトリアムに終わりを告げる通過儀礼だったのかな、などと考えていた。

 

 通過儀礼(initiation)は、例えば成人式とか結婚式とか、「個人をある特定のステータスから別のステータスへと通過させることを目的とした儀式」(van Gennep)のこと。ただし今の日本で体験できるそれらは原初のものとは異なっている。たとえば通過儀礼としての成人式は、今の我々が経験するような生の連続の途中で与えられるイベントを指すのではなくて、「象徴的な死」を経験し、生まれ変わることを意味している。だから、どこかの部族ではバンジージャンプをするとか、大人が容赦なく蹴落としてくる崖を登るとか、鞭うたれるとか、そういう儀礼を執り行うらしい。そういう臨死体験を経て、子どもの自らを殺して、「大人」の仲間入りをしていく。現代日本では制度的に集団からそのような儀礼が用意されることがなくなってしまったから、個人が自らで儀礼となるような経験を乗り越えなければいけない…らしい。*1まあ日本でも振袖であべのハルカスを登るというのがありますけど……全部やだけど……。

 


 ここから先は大学生という自分を今にも殺さなければならない私の実感をこめた文章です。オタクすぐ因果いじる

 

 30歳で現状ニート、実家暮らしで家賃取り立ててお小遣い5万円。

 自分、大家業やったこともないのに家賃収入で暮らしてえな~とか言っちゃうことあって良くないとは思うんだけど、なんというかまあ、息子は、2度目のモラトリアムを生きていた。決まった仕事に出て行かなくても、人と積極的に関わらなくても、たとえお小遣いがもらえなくても、きっと衣食住に困ることはない。親が死んだら別だけど。

 

 年を重ねるということはつまり、死との隔たりみたいなものが徐々に崩れていくことだと思う。生まれてから幼稚園、小学校、中学校、高校、大学生、社会人、最後には死。最後だけは誰にも平等。大家の息子も大学を卒業したけど、始点からせいぜい20数年の話。企業の内定をつかみ取ったときにはきっと喜び喜ばれて、勤めて、それなりの業績も収めてきた。辞めたのは4年前の26歳。不運なことがなければ、50年くらいは生きるだろう、先は長い。でも、このまま働いているか働いていないかのどちらかの状態、社会人かニートに属する二択で、それであとは老後、あとは死。自らの足で歩くことも、人に話しかけることもなくなる。


 人間は生まれてしまったら、生まれなかったことにはできない。同じく、産んでしまったら産まなかったことにはできない。ソウマという名字に生まれたらソウバとは読ませないし、左利きを右利きに直されたらもう左で字は書けないし、サンタさんがいないと知ったら知らなかった頃には戻れない。それから、大きくなって進路決定に代表されるような選択と決断を繰り返すごとに、我々は何かしらの可能性を削ぎ落としていく。その先には「自分が選んだたった一つの現実」しか残らない。死との隔たりを壊していくたびに、私たちはいろんな可能性を捨ててきた。たぶんまあこれを読んでくれている人がいるとして、その人たちは私を含めもうプロ野球選手や宇宙飛行士やアイドルになることはない。アイドルが見てたら連絡してほしい。

 こうして人生は急激に移動可能面積がちいさくなっていく。モラトリアムが終わるころには、私たちは生まれたその日から比べればとってもとっても狭くなった可能性の中で、死ぬその日にぐんと近づいている。

 

 じゃあモラトリアムの終焉の怖さは、死ぬ怖さだろうか。
 死ぬことは怖いこと。たしかに。だけど、漠然と抱くこの怖さはそうではなくて、それでも生きていかなければならないことへの恐怖だとおもう。
 皮肉にも人間には過去と未来、自己と他者について考える知性がある。生きてたかだか100年だけど、そういうことをいろいろ考えるととても果てしないような気がして参ってしまう。10年後安定して暮らしているだろうか、自分や家族は健康だろうか、目の前の仕事や課題は終わるんだろうか…考えることをやめたくなる。社会に生きている以上無限に考えてしまうから、考えるきっかけを断ちたくなる。人に会いたくなくなる。その先では自死を選んでしまうかも。たかが知れた未来なんだから、棄てても同じなのだろうか。死ぬより生きるほうが怖いかも。受動的な無の有がネガティブになる代表例かしら。

 


 そういえば葬儀もまた、通過儀礼のひとつとされている。
 死者の世界に入れるようにするための儀礼で、古い肉体としての人間が死に、新たに霊となって生まれ変わる。もしくは古くから、行き場所を失った死霊をそのままにしておくと、生者に害が及ぶと信じられていたからこその儀礼ともとれる。なんにせよ、死霊として次の居場所で生き返る、という考え方がある。
 それから、残された者がそれを受け入れるための儀礼という考え方もできる。服喪というシステムとか、喪服とか(ややこしいね)、それらは遺族の悲嘆を社会的に自然なこととして認めて、それらにつとめることが遺族のグリーフワーク(死別の悲しみからの立ち直り)に寄与するという機能をもっている。葬儀で出棺のときにお茶碗を割るのはあなたの帰ってくる場所にはここにはありませんと伝えるためとされるけれど、これは双方にとって、故人の生きた世界を殺す作用がある。

 これで、関わりを断ち切ってお別れしたのではなく、実は生まれ変わったんだということになる。やっぱりもう会えないなんて悲しすぎるから、信じていたいのだろうなと思う。
 見えなくても、いる。あるんだと。きっと今この葬儀を見ているし、喜ばせることだってできると。
 こころを保って生きていくために我々は、昔からずっとずっと想像してきた。

 それが他者とっては何がなんだかわからない存在であっても、みんな何かを大事に抱えながら生きているんだろうなと思う。そもそも「存在」しないものとか、「存在」してもそれが何故?となるものとか。信仰だってそうだろう。神はいると思えばいる。

 そういう人やものが誰にどう思われようとも、嫌われようとも、あるはある。その実存を問わず、意識に浮遊しているのか、ごく少数の間にただよう概念なのかはわからないけど。

 そしてそれが人間として生きているならば、本当は肉体的な死を境に生まれ変わることなんてしてほしくない。そんな想像力働かせなくて済むならそれがいちばんなんだから。そのままのあなたがいてほしいに決まっているのだから。その動機だけで生きるのが大変だったら救いを作ろう。神を信じようが、架空の犬に癒されようが、コント師を好こうが自由。

 

 あの部屋で、大家の息子はモラトリアムの終焉という生まれ変わりを果たした、と思う。大家の息子にとって未知なる存在であったソウマさんが彼を変えるきっかけ・支える存在になった。敬語で自らの殻をつくり何も見えなかった彼は死に、タメ語でアンちゃんにもすき焼きにも触れる彼が生まれた。塑像を造ったように。

 こうなると割れてしまったワンカップにも意味を見出してしまえそうだ………。想像サイコー…………おしまい

 

 

 

さらに個人的な感傷

 まあそういう話じゃないんだろうなと思いながらソウマさんがふつうに幻覚さんの見えるタイプの人だったら面白いというか親近感があるとも初見のときに思っていた。病気で幻覚見えるようになった人たちとしばしば会うことがあって、まあ、そういうものって基本的に本人にとって不快だったり攻撃的だったりするんだけど、たまにめちゃくちゃ友好的だったりいないと落ち着かなかったり恋しちゃったりしてる人がいるんだよね。そういう人たちの話を聞くと羨ましいなとすら思う。すっごい楽しそうなんだこれが。詳しいことは個人情報だからまあ話せないけど…そういう人にとっては「なおる」ことが果たして幸せなのかなあと思ったりして。
 個人的には表題コントに怖さもほのかに感じていて、ふたりが異界に行って帰ってこれないようなきもちになってしまいもしたんだけど、やっぱり幸せならそれでいいのかな。救いはあったほうがいいし、ないなら作ればいい。何と言われようともみんな幸せに生きる権利があって、それは誰にも止められない。はたからみてアンノウンな救いや幸せのおかげで、今日もきっとたくさんの人が生きていられる。

*1:らしいというのは私が文化人類学を専攻したわけではなく心理療法のアプローチから聞きかじっただけだからである。

革命前夜

 不自由な夏だったと思う。

 家で勉強も論文執筆も就活も進めるだけの生活で、パソコンと布団を置いた8畳間だけが生活のほぼすべてだった。出不精にとってあらゆるジャンルの配信サービスの圧倒的な普及はありがたかったが、購入したオンラインチケットは持ち前の怠惰さがゆえに10%の確率で無に帰した。そのときは悔しくて、闇に吸い込まれた数千円を想うと胸が苦しくなったが、一晩寝ればわりとどうでもよくなった。

 だから私は、気付くと私は日付が変わるころから2時間も3時間もゲーム実況配信を見ていた。

 そこでは複数の成人男性が夜な夜なFall GuysにPTとして集まっては到底日本人が日常生活で出すとは思えぬ金切り声をあげたり重課金に心血を注いだり、フォールガイザーズなどと名乗りながらその粗い内輪ノリを700人の視聴者に煽られていた。

 

 そこで私は記憶を取り戻したのです、劇場に足を運びまくっていた以前の暮らしを。

 

 大学に入ってお笑いの劇場に通い始めた私はコント師なる人々を知って、きっかけも分からなければ周りの景色の変化にも気付かない無自覚な状態で、彼らの舞台をなるべく漏れなく見に行きました。見に行くたびに1枚ずつ持ち帰らされる紙きれの束については、数えないようにしています。1枚1枚が紙幣に置き換わる夢でも見たらおしまいなので。

 

 まず、ロングコートダディを好きになりました。彼らを見に行くと、基本的にニッポンの社長も見ることになる。このシステムに気付くのにそう時間はかかりません。彼らはたぶんいわゆる類似タレントです。敗北つづきだった”大戦争”シリーズ、単発で興した"大特訓"、そしてしばらくして定期開催になったそれでも、社長はずっと不動のネコちゃんでした。2組の劇場に入るまでの道程が酷似していることなんかを新参の自分は後付けで知りつつ、彼らが漠然と同じ思想、趣向を共有しているのだろうなということを読み取るのにも、時間はかからなかったと言えるでしょう。

 ただ、アウトサイダーな勢力、反体制派の結社として選んで一緒にいるというよりは、彼らが収まるための場所が極端に限られていたというほうが実際だったのかもしれません。ただ彼らは共通して自分たちの「面白い」の感覚に絶対的な信頼を置いていたし、自分たちの面白いと思うものを愛しているのだと、いつも感じていました。”大特訓”において「好きな人たちのことを集めてネコちゃんと呼んでいるけど、僕の好きな人たちは人気がない」と相好を崩した主催者の姿は、ひとつ象徴的な姿だと思っています。大衆の評価よりも愛すべきものを持っているという点では、ぴたりと重なってぶれることが無かったのだろうと思います。

 でも、やっぱりコント師が少しずつ離散したり、幾つかのコントライブが立ち上がっては自然消滅したり*1しながら、月日は流れていました。

 思い出すのはたとえばロコ社ビスブラという3組でのユニットライブ、ガッツボーイズは初回のその日、大阪で大きな地震があった直後の公演でした。多くの路線は止まったままだったから、客席は未だに思い出せるくらいガラガラで。そのエンディングで、「今日は残念だけどでもチケット売れてなかったからうやむやにできて助かった」的な発言があったように記憶しています。別にそう遠い日の話でもないのに、今ではたぶんあり得ない。ちなみにこれもリベンジの2回目があって以来見ていません。そういうことだったんでしょうね、たぶん。

 

 そんなことを繰り返しながら彼らもだんだん劇場出番が増えたり、東京やテレビの仕事なんかもあったり、漫才で着実に戦績を残したり。あるときからインディーズライブで見ることがなくなったどころか、インディーズライブが劇場ライブになったりして。チケットの売れ行きとかSNSやユーチューブの賑わいとか、そういうところを見ていると、もはや人気がないなんてことは無いんじゃないかとおもいます。特に劇場が閉まってからのブーストが妙に強かった気がする、安定して続けられたゲーム実況のパワーが強かったんじゃないかと睨んでいます、フォールガイズ含め。よかった。ぜんぶぜんぶ報われてほしいと願ってやまないので。

 

ロングコートダディを見る私

 何かや誰かを推すということはとても繊細でめんどくさい感情の激流を伴う活動なので、好きであればあるほど定期的にがっかりするような、いわゆる「推せない」という感情の烈風に倒れるときがあります。

 そういうめんどくさい起伏が、不思議と彼らを見ていても起きないことに、あるとき気が付きました(ここについて話すと2万字になるからやめとくね)。がっかりしたことが、無い。

 たまに悔しいとかやるせないとか、そういう気持ちを味わうことはありますけど、それは基本的に賞レースの結果に振り回されたオタクの弱さと言う他ありません。単独などを見るたびに、いろいろな賞レースに勝手に一喜一憂して、何がしたいんだ……願いたいのはただ幸せになってほしいということなのに……という、世界一キモい涙を一筋流すという時間を持ちます。文に起こしたらマジでキモくてまた涙が出てきました。

 ただし、彼らがこと拘っている賞レースがあって、それはやっぱりKOCでした。ずっとずっと「優勝」を標榜しているし、ふたりともそれを言葉に出すことをいつでも臆さなかった。だから毎年夏はドキドキして、喜んで落ち込んで、珍しく推し感情由来の起伏を味わってきました。嗚呼ありがとう事前発表。今年のファイナリストでよかった。

 

ケンタウロスというネタ

 印象としては一時期めちゃくちゃ劇場で見たネタ、こればっかやってんなと思った記憶もあるし、それこそ翔ライブでもしばしば見ていました(社長が翔メンバーだったという明らかな事実が既に不思議)。ただ、いつしかそれを見る機会は減って、特別なところでだけ披露される祈りの儀式みたいになっていき、ネットの世界では「なんかとんでもないネタがあるらしい」と格別な言い伝えになっていったような体感であります。ケンタウロスという言い伝えはもうしっかりとした神話じゃん。

 

 社長を含め大阪組はテレビでどう評価され、審査員、一見さんの目にどう映るのでしょうか。彼らを取り巻く声に勝手に誇らしく笑うのか、勝手にファイティングポーズを構えるのか、こればっかりはもう分かりません。特に、賞レースと”いらんこと言い”はセットだと考えています。

  • 「意味わからん」
  • 「配慮がない」(火種)
  • ユーチューブに数本上がっている(そしてそのほとんどが違法アップである)ネタ動画のうち見た1、2本のタイトルを出して「〇〇は△△のネタやればよかったのに」とかほざく奴(嫌い)(noob)(ネットやめろ)(ドコモ口座)

 彼らが華やかな何かを掴み取るのか、有象無象の明滅に捕らわれるのか、さっぱりわかりません。ただ、彼らが特異な脳みそと愛で積み上げたものは、まやかしなんかではないと思うのです。当然に好きで信頼している状態が長引いているので麻痺していますが、まあ、別に彼らが面白いことに変わりはないですし。ここまで具体的には触れていないけど、もちろん滝音だってそのうちの1組です。

 

 明日の夜、次の朝には一体どうなっているでしょうか。われわれの見ていた世界は大きく変わっているかもしれないし、さほど変わらないかもしれない。ある一点が爆発的に変わるかもしれないし、いろんなことが少しずつ変わって、総和として一変するかもしれない。

 願わくば、コント番組にもレクサスにもエアコンにも国産うなぎにも、望めば手の届く世界にはなってほしい。でも今まで通り仲良したちと内を向いて楽しくなると箸が転げるだけで死ぬほど笑っていてほしいし、緊張を殺すために量産したノリはいつかどこかで披露してほしい。船は長期計画だけど、まあ、全国ツアーでもしながら購入してもらおうかな…。

 こんな不自由な夏に彼らの愛に満ちた革命がテレビで目撃できることを祝福しようね、日本中。

*1:極コントLIVEくん、君のこと忘れてないよ。