革命前夜

 不自由な夏だったと思う。

 家で勉強も論文執筆も就活も進めるだけの生活で、パソコンと布団を置いた8畳間だけが生活のほぼすべてだった。出不精にとってあらゆるジャンルの配信サービスの圧倒的な普及はありがたかったが、購入したオンラインチケットは持ち前の怠惰さがゆえに10%の確率で無に帰した。そのときは悔しくて、闇に吸い込まれた数千円を想うと胸が苦しくなったが、一晩寝ればわりとどうでもよくなった。

 だから私は、気付くと私は日付が変わるころから2時間も3時間もゲーム実況配信を見ていた。

 そこでは複数の成人男性が夜な夜なFall GuysにPTとして集まっては到底日本人が日常生活で出すとは思えぬ金切り声をあげたり重課金に心血を注いだり、フォールガイザーズなどと名乗りながらその粗い内輪ノリを700人の視聴者に煽られていた。

 

 そこで私は記憶を取り戻したのです、劇場に足を運びまくっていた以前の暮らしを。

 

 大学に入ってお笑いの劇場に通い始めた私はコント師なる人々を知って、きっかけも分からなければ周りの景色の変化にも気付かない無自覚な状態で、彼らの舞台をなるべく漏れなく見に行きました。見に行くたびに1枚ずつ持ち帰らされる紙きれの束については、数えないようにしています。1枚1枚が紙幣に置き換わる夢でも見たらおしまいなので。

 

 まず、ロングコートダディを好きになりました。彼らを見に行くと、基本的にニッポンの社長も見ることになる。このシステムに気付くのにそう時間はかかりません。彼らはたぶんいわゆる類似タレントです。敗北つづきだった”大戦争”シリーズ、単発で興した"大特訓"、そしてしばらくして定期開催になったそれでも、社長はずっと不動のネコちゃんでした。2組の劇場に入るまでの道程が酷似していることなんかを新参の自分は後付けで知りつつ、彼らが漠然と同じ思想、趣向を共有しているのだろうなということを読み取るのにも、時間はかからなかったと言えるでしょう。

 ただ、アウトサイダーな勢力、反体制派の結社として選んで一緒にいるというよりは、彼らが収まるための場所が極端に限られていたというほうが実際だったのかもしれません。ただ彼らは共通して自分たちの「面白い」の感覚に絶対的な信頼を置いていたし、自分たちの面白いと思うものを愛しているのだと、いつも感じていました。”大特訓”において「好きな人たちのことを集めてネコちゃんと呼んでいるけど、僕の好きな人たちは人気がない」と相好を崩した主催者の姿は、ひとつ象徴的な姿だと思っています。大衆の評価よりも愛すべきものを持っているという点では、ぴたりと重なってぶれることが無かったのだろうと思います。

 でも、やっぱりコント師が少しずつ離散したり、幾つかのコントライブが立ち上がっては自然消滅したり*1しながら、月日は流れていました。

 思い出すのはたとえばロコ社ビスブラという3組でのユニットライブ、ガッツボーイズは初回のその日、大阪で大きな地震があった直後の公演でした。多くの路線は止まったままだったから、客席は未だに思い出せるくらいガラガラで。そのエンディングで、「今日は残念だけどでもチケット売れてなかったからうやむやにできて助かった」的な発言があったように記憶しています。別にそう遠い日の話でもないのに、今ではたぶんあり得ない。ちなみにこれもリベンジの2回目があって以来見ていません。そういうことだったんでしょうね、たぶん。

 

 そんなことを繰り返しながら彼らもだんだん劇場出番が増えたり、東京やテレビの仕事なんかもあったり、漫才で着実に戦績を残したり。あるときからインディーズライブで見ることがなくなったどころか、インディーズライブが劇場ライブになったりして。チケットの売れ行きとかSNSやユーチューブの賑わいとか、そういうところを見ていると、もはや人気がないなんてことは無いんじゃないかとおもいます。特に劇場が閉まってからのブーストが妙に強かった気がする、安定して続けられたゲーム実況のパワーが強かったんじゃないかと睨んでいます、フォールガイズ含め。よかった。ぜんぶぜんぶ報われてほしいと願ってやまないので。

 

ロングコートダディを見る私

 何かや誰かを推すということはとても繊細でめんどくさい感情の激流を伴う活動なので、好きであればあるほど定期的にがっかりするような、いわゆる「推せない」という感情の烈風に倒れるときがあります。

 そういうめんどくさい起伏が、不思議と彼らを見ていても起きないことに、あるとき気が付きました(ここについて話すと2万字になるからやめとくね)。がっかりしたことが、無い。

 たまに悔しいとかやるせないとか、そういう気持ちを味わうことはありますけど、それは基本的に賞レースの結果に振り回されたオタクの弱さと言う他ありません。単独などを見るたびに、いろいろな賞レースに勝手に一喜一憂して、何がしたいんだ……願いたいのはただ幸せになってほしいということなのに……という、世界一キモい涙を一筋流すという時間を持ちます。文に起こしたらマジでキモくてまた涙が出てきました。

 ただし、彼らがこと拘っている賞レースがあって、それはやっぱりKOCでした。ずっとずっと「優勝」を標榜しているし、ふたりともそれを言葉に出すことをいつでも臆さなかった。だから毎年夏はドキドキして、喜んで落ち込んで、珍しく推し感情由来の起伏を味わってきました。嗚呼ありがとう事前発表。今年のファイナリストでよかった。

 

ケンタウロスというネタ

 印象としては一時期めちゃくちゃ劇場で見たネタ、こればっかやってんなと思った記憶もあるし、それこそ翔ライブでもしばしば見ていました(社長が翔メンバーだったという明らかな事実が既に不思議)。ただ、いつしかそれを見る機会は減って、特別なところでだけ披露される祈りの儀式みたいになっていき、ネットの世界では「なんかとんでもないネタがあるらしい」と格別な言い伝えになっていったような体感であります。ケンタウロスという言い伝えはもうしっかりとした神話じゃん。

 

 社長を含め大阪組はテレビでどう評価され、審査員、一見さんの目にどう映るのでしょうか。彼らを取り巻く声に勝手に誇らしく笑うのか、勝手にファイティングポーズを構えるのか、こればっかりはもう分かりません。特に、賞レースと”いらんこと言い”はセットだと考えています。

  • 「意味わからん」
  • 「配慮がない」(火種)
  • ユーチューブに数本上がっている(そしてそのほとんどが違法アップである)ネタ動画のうち見た1、2本のタイトルを出して「〇〇は△△のネタやればよかったのに」とかほざく奴(嫌い)(noob)(ネットやめろ)(ドコモ口座)

 彼らが華やかな何かを掴み取るのか、有象無象の明滅に捕らわれるのか、さっぱりわかりません。ただ、彼らが特異な脳みそと愛で積み上げたものは、まやかしなんかではないと思うのです。当然に好きで信頼している状態が長引いているので麻痺していますが、まあ、別に彼らが面白いことに変わりはないですし。ここまで具体的には触れていないけど、もちろん滝音だってそのうちの1組です。

 

 明日の夜、次の朝には一体どうなっているでしょうか。われわれの見ていた世界は大きく変わっているかもしれないし、さほど変わらないかもしれない。ある一点が爆発的に変わるかもしれないし、いろんなことが少しずつ変わって、総和として一変するかもしれない。

 願わくば、コント番組にもレクサスにもエアコンにも国産うなぎにも、望めば手の届く世界にはなってほしい。でも今まで通り仲良したちと内を向いて楽しくなると箸が転げるだけで死ぬほど笑っていてほしいし、緊張を殺すために量産したノリはいつかどこかで披露してほしい。船は長期計画だけど、まあ、全国ツアーでもしながら購入してもらおうかな…。

 こんな不自由な夏に彼らの愛に満ちた革命がテレビで目撃できることを祝福しようね、日本中。

*1:極コントLIVEくん、君のこと忘れてないよ。