あなたのわたしのアンノウン

 

 いやあいい単独だったなぁ。

 表題コントをメインに据えて考えたことを徒然に。

 

初見時

  • 他者が何を考えたり感じたり、なぜいつどのように行動を起こすかはその人次第であるし、他者の気持ちを操作することもできない。深く付き合ったからといって、すべてその人の「裏」を読み取れるわけではない。自分以外はみな本質的には分かり合えるはずのない他者である。
  • どんな経験もそれ自体では成功の原因でも失敗の原因でもなくて、それにどんな意味付けをするかで現在は決まる

 キャパオーバーしていた脳で初見時に読み取ったこのあたりのことは、アドラー心理学めいていて、そりゃあ日本人であるわれわれの心の不安定な部分を優しく暴くよなあ、と思いました。

 日本人は空気を読ませる、ものすごく。つかれるよね。時流をよんで、適切な言動、ふるまい。わかんねーよそんなの、ちゃんと言えよ、って思う。じゃあいざ自分は言うのか?というと、人を傷つけたくないし、傷つける悪者になりたくなくて何も言えないんですよね。みんなで腹を探りあって疑心暗鬼になって。そこにちょっと思ったことバッて言っちゃう人がいたら疎まれるし。議論すべき場で議論をせずに愚痴を言うのはフェアじゃないんだけど、空気を読んだらそうなっちゃうとか。かなしいことだ…。われわれは日々さまざまな無を有にしては疲れていたのか…。受動的な無の有を作って苦しむぐらいなら、自発的な無の有で生きやすくなれということでしょうか。刻むわな。

  

 想像の溝という点では、ピンクタイムトリップを思い出した。言葉にしないと伝わらないし、ひいてはいつかとてつもない後悔を生んでしまう…

 てかまじソウマさん何者 恐れ入る……ねんどねんど♪

 

 

そして思考の沼へ 

 ソウマさんの家に入る暗転のタイミングでなぜか流れる音楽が「Good Bye」で、帰りの電車であらためて歌詞を見ながら聞いてなんだか心がざわついたり。帰ってきて配信を見たらカメラの画角のおかげで、彩度の低い暗い服を着た息子と背後の暗幕、黒いドアだけが映っているところに登場する真っ白いソウマさんだけが浮いていて、よりいっそう不思議に見えたり。

 いろいろしがみたいオタクごころもあいまって見ていると、モラトリアムに終わりを告げる通過儀礼だったのかな、などと考えていた。

 

 通過儀礼(initiation)は、例えば成人式とか結婚式とか、「個人をある特定のステータスから別のステータスへと通過させることを目的とした儀式」(van Gennep)のこと。ただし今の日本で体験できるそれらは原初のものとは異なっている。たとえば通過儀礼としての成人式は、今の我々が経験するような生の連続の途中で与えられるイベントを指すのではなくて、「象徴的な死」を経験し、生まれ変わることを意味している。だから、どこかの部族ではバンジージャンプをするとか、大人が容赦なく蹴落としてくる崖を登るとか、鞭うたれるとか、そういう儀礼を執り行うらしい。そういう臨死体験を経て、子どもの自らを殺して、「大人」の仲間入りをしていく。現代日本では制度的に集団からそのような儀礼が用意されることがなくなってしまったから、個人が自らで儀礼となるような経験を乗り越えなければいけない…らしい。*1まあ日本でも振袖であべのハルカスを登るというのがありますけど……全部やだけど……。

 


 ここから先は大学生という自分を今にも殺さなければならない私の実感をこめた文章です。オタクすぐ因果いじる

 

 30歳で現状ニート、実家暮らしで家賃取り立ててお小遣い5万円。

 自分、大家業やったこともないのに家賃収入で暮らしてえな~とか言っちゃうことあって良くないとは思うんだけど、なんというかまあ、息子は、2度目のモラトリアムを生きていた。決まった仕事に出て行かなくても、人と積極的に関わらなくても、たとえお小遣いがもらえなくても、きっと衣食住に困ることはない。親が死んだら別だけど。

 

 年を重ねるということはつまり、死との隔たりみたいなものが徐々に崩れていくことだと思う。生まれてから幼稚園、小学校、中学校、高校、大学生、社会人、最後には死。最後だけは誰にも平等。大家の息子も大学を卒業したけど、始点からせいぜい20数年の話。企業の内定をつかみ取ったときにはきっと喜び喜ばれて、勤めて、それなりの業績も収めてきた。辞めたのは4年前の26歳。不運なことがなければ、50年くらいは生きるだろう、先は長い。でも、このまま働いているか働いていないかのどちらかの状態、社会人かニートに属する二択で、それであとは老後、あとは死。自らの足で歩くことも、人に話しかけることもなくなる。


 人間は生まれてしまったら、生まれなかったことにはできない。同じく、産んでしまったら産まなかったことにはできない。ソウマという名字に生まれたらソウバとは読ませないし、左利きを右利きに直されたらもう左で字は書けないし、サンタさんがいないと知ったら知らなかった頃には戻れない。それから、大きくなって進路決定に代表されるような選択と決断を繰り返すごとに、我々は何かしらの可能性を削ぎ落としていく。その先には「自分が選んだたった一つの現実」しか残らない。死との隔たりを壊していくたびに、私たちはいろんな可能性を捨ててきた。たぶんまあこれを読んでくれている人がいるとして、その人たちは私を含めもうプロ野球選手や宇宙飛行士やアイドルになることはない。アイドルが見てたら連絡してほしい。

 こうして人生は急激に移動可能面積がちいさくなっていく。モラトリアムが終わるころには、私たちは生まれたその日から比べればとってもとっても狭くなった可能性の中で、死ぬその日にぐんと近づいている。

 

 じゃあモラトリアムの終焉の怖さは、死ぬ怖さだろうか。
 死ぬことは怖いこと。たしかに。だけど、漠然と抱くこの怖さはそうではなくて、それでも生きていかなければならないことへの恐怖だとおもう。
 皮肉にも人間には過去と未来、自己と他者について考える知性がある。生きてたかだか100年だけど、そういうことをいろいろ考えるととても果てしないような気がして参ってしまう。10年後安定して暮らしているだろうか、自分や家族は健康だろうか、目の前の仕事や課題は終わるんだろうか…考えることをやめたくなる。社会に生きている以上無限に考えてしまうから、考えるきっかけを断ちたくなる。人に会いたくなくなる。その先では自死を選んでしまうかも。たかが知れた未来なんだから、棄てても同じなのだろうか。死ぬより生きるほうが怖いかも。受動的な無の有がネガティブになる代表例かしら。

 


 そういえば葬儀もまた、通過儀礼のひとつとされている。
 死者の世界に入れるようにするための儀礼で、古い肉体としての人間が死に、新たに霊となって生まれ変わる。もしくは古くから、行き場所を失った死霊をそのままにしておくと、生者に害が及ぶと信じられていたからこその儀礼ともとれる。なんにせよ、死霊として次の居場所で生き返る、という考え方がある。
 それから、残された者がそれを受け入れるための儀礼という考え方もできる。服喪というシステムとか、喪服とか(ややこしいね)、それらは遺族の悲嘆を社会的に自然なこととして認めて、それらにつとめることが遺族のグリーフワーク(死別の悲しみからの立ち直り)に寄与するという機能をもっている。葬儀で出棺のときにお茶碗を割るのはあなたの帰ってくる場所にはここにはありませんと伝えるためとされるけれど、これは双方にとって、故人の生きた世界を殺す作用がある。

 これで、関わりを断ち切ってお別れしたのではなく、実は生まれ変わったんだということになる。やっぱりもう会えないなんて悲しすぎるから、信じていたいのだろうなと思う。
 見えなくても、いる。あるんだと。きっと今この葬儀を見ているし、喜ばせることだってできると。
 こころを保って生きていくために我々は、昔からずっとずっと想像してきた。

 それが他者とっては何がなんだかわからない存在であっても、みんな何かを大事に抱えながら生きているんだろうなと思う。そもそも「存在」しないものとか、「存在」してもそれが何故?となるものとか。信仰だってそうだろう。神はいると思えばいる。

 そういう人やものが誰にどう思われようとも、嫌われようとも、あるはある。その実存を問わず、意識に浮遊しているのか、ごく少数の間にただよう概念なのかはわからないけど。

 そしてそれが人間として生きているならば、本当は肉体的な死を境に生まれ変わることなんてしてほしくない。そんな想像力働かせなくて済むならそれがいちばんなんだから。そのままのあなたがいてほしいに決まっているのだから。その動機だけで生きるのが大変だったら救いを作ろう。神を信じようが、架空の犬に癒されようが、コント師を好こうが自由。

 

 あの部屋で、大家の息子はモラトリアムの終焉という生まれ変わりを果たした、と思う。大家の息子にとって未知なる存在であったソウマさんが彼を変えるきっかけ・支える存在になった。敬語で自らの殻をつくり何も見えなかった彼は死に、タメ語でアンちゃんにもすき焼きにも触れる彼が生まれた。塑像を造ったように。

 こうなると割れてしまったワンカップにも意味を見出してしまえそうだ………。想像サイコー…………おしまい

 

 

 

さらに個人的な感傷

 まあそういう話じゃないんだろうなと思いながらソウマさんがふつうに幻覚さんの見えるタイプの人だったら面白いというか親近感があるとも初見のときに思っていた。病気で幻覚見えるようになった人たちとしばしば会うことがあって、まあ、そういうものって基本的に本人にとって不快だったり攻撃的だったりするんだけど、たまにめちゃくちゃ友好的だったりいないと落ち着かなかったり恋しちゃったりしてる人がいるんだよね。そういう人たちの話を聞くと羨ましいなとすら思う。すっごい楽しそうなんだこれが。詳しいことは個人情報だからまあ話せないけど…そういう人にとっては「なおる」ことが果たして幸せなのかなあと思ったりして。
 個人的には表題コントに怖さもほのかに感じていて、ふたりが異界に行って帰ってこれないようなきもちになってしまいもしたんだけど、やっぱり幸せならそれでいいのかな。救いはあったほうがいいし、ないなら作ればいい。何と言われようともみんな幸せに生きる権利があって、それは誰にも止められない。はたからみてアンノウンな救いや幸せのおかげで、今日もきっとたくさんの人が生きていられる。

*1:らしいというのは私が文化人類学を専攻したわけではなく心理療法のアプローチから聞きかじっただけだからである。